250:100話の自叙伝をデジタル出版する
[2022/08/21設定]
2024年11月24日現在: 9 / 100
009話:習い事(区分=生い立ち4) 小学生までに習っていた習い事は、剣道・習字・水泳・そろばん・塾・野球の6つだ。 剣道(湯里会館):西喜連保育所年中のすみれ組〜喜連北小学校4年生まで 習字(現サンディ喜連西店の2F):喜連北小学校1年生〜喜連北小学校2年生 水泳(喜連スイミングスクール):喜連北小学校3年生〜喜連北小学校4年生 そろばん(藤井珠算教室):喜連北小学校4年生〜喜連北小学校6年生 塾(三杉塾):喜連北小学校5年生〜喜連北小学校6年生 野球(少年野球喜連コメッツ):喜連北小学校5年生〜喜連北小学校6年生 今回は習字教室とそろばん教室についてのストーリーを書く。 小学校1年生4月から2年間でやめてしまったが、毛筆と硬筆どちらもまともに字が書けるようになったのは習字教室に通ってたおかげだ。そうでなければ、書くのは速いが雑で読めない字だっただろう。何級まで取ったか、段までいったのかさえ覚えていないが、ある事件を起こしたことは今でも覚えている。 同じ小学校同学年の力野という悪ガキが居てこいつも同じ習字教室に通っていた。ある日、筆に墨汁をたっぷりしみ込ませ、墨汁のかけ合い戦争を起こしたことがあった。エスカレートして教室中が大変なことになり、止めに入った先生の服も真っ黒で無茶苦茶叱られた。親も菓子折り持って謝りに行っていた。 一方、そろばん教室に通っていたのは小学校高学年である。教室のそろばんを裏返して上に乗ってローラースケートしていたら、これまたひどく叱られた。そく考えてみたら、小学校1年〜6年まですべての担任からビンタを何回もくらっているし、別の学年の先公から呼び出されビンタされたこともあり、とんでもない子供だったのだろう。たぶん、今で言ったら落ち着きがない障害だったのだろう。 いちおう、そろばんでは珠算大会でトロフィーももらっているし、そろばんも暗算も級か段かは覚えてないが良いところまでいってたはずだ。暗算はたしか準1級。 大阪府珠算協会のソフトボール大会に優勝した。トーナメント形式で4試合くらい買っての優勝。他のチームはジャージ姿が多かったのだが、自分のところのそろばん教室チーム(藤井珠算教室)は全員が少年野球メンバーでユニフォーム姿での参加だった。地元に、自分も所属していた少年野球チームの喜連コメッツともう1つチームがあり半々くらいの混合チームみたいなもんだ。自分は1番バッターでホームランを量産(といってもランニングホームラン)し、守備はセンターだった。普通にセンターゴロでアウトにできるほどの強肩だ。小学校5年生のときは50m走は6.5秒だったので運動会で短距離は負けなし。 習字とそろばんは、字を速く書いたり、計算を速くできたりと後のテストなどに役立った。自分の子供には、アイスホッケー・英会話教室・水泳くらいしか活かせてなかったが、見てたら差が分かる。 |
008話:野宿(区分=バイク3) 初めて野宿したのは大学2回生初夏に野郎友達と2人で西日本1周ツーリングをしたときだ。まだ、バイクに乗り初めて半年ほどの何をしても面白い頃だ。バイクはホンダNSR250Rでなにわナンバー。友達はカワサキZZR250で神戸ナンバー。全て下道で1週間のタオルや着替えすらない、所持品は雨具と2ストオイルだけの手ぶら弾丸ツーリングだ。 1日目は滋賀から山口まで行き下関のフェリー乗り場かなんかの大きな駐車場で寝た。大型トラック用のタイヤ止めを枕に布団も何もなくアスファルト上で寝た。枕がひんやりしてるのは良いが固すぎる。今、思い起こせば、トラックに踏みつぶされてもおかしくなかったが野宿初心者には必至のため仕方ないか。 2日目は福岡か大分にあったオートレストラン(自販機がたくさんあるゲーセン込みの田舎の施設)で椅子を並べてその上で寝た。地面に垂れ下がった自分の手に誰かが触ってくるので目覚めると、沢蟹が突ついていた。3日目は宮崎の土々呂駅という無人駅のベンチで寝た。ゴキブリやガに苦しめられ全く寝れなかった。4日目は高知の南国という道の駅横にあった公園のハンモックの遊具で寝ていたが気持ち悪くなって藤棚の上で寝た。同行した友達はマットを持っていたがこちらは何もない、ズル過ぎる。夏というのに山中は凄まじい寒さでカッパを来て寝た。蚊にも苦しめられた。 初心者だから仕方ないが、最初の野宿ツーリングは失敗だった。その経験を活かし1年後くらいには別の友達と3人で四国など何回か野宿ツーリングした。マットや寝袋だけでなく、蚊にたくさん刺された反省も踏まえ、虫よけスプレーも持って行った。山中の道の駅のベンチで野宿した結果、自分は1箇所も蚊に刺されなかったが、友達2人は蚊に刺され過ぎて顔面も原形がなくなっていた。2人とも100箇所以上刺されてゾンビにみたいになっていた。ざま〜。よく病気にならなかったものだ。皆、タフガイである。 同じ2人と秋に鳥取に野宿ツーリングしたときは突然雨が降ってきて仕方なくある建物の屋根のある正面玄関で3人それぞれ段ボールの中で寒さを防ぎ寝た。翌早朝にどなり声で叩き起こされた。その建物は武道館で館長が来たのである。理由を話すと、「道場破りかと思った」と言われたが館内に入れてもらい更に寝れた。館長、ありがと〜\(^_^)/ 30年くらい経った今では、どこでも寝ることのできないヤワな人間になってしまったが、段ボールの暖かさやマット+寝袋+虫よけの快適さはハッキリ覚えている。ハングリー精神さえ鍛え直せば、ル〇ペ〇と同等のねぐらでも熟睡できるはずだ。昔の良き時代の思い出である。 |
007話:スポーツ万能の高校時代(区分=生い立ち3) 今でこそ体重85kgのちょいデブおやじになってしまったが、高校の時はスーパーサイヤ人級の運動能力でマイクタイソンにも勝てると本気で思っていた。 中学校までは短距離が負けたことないくらいでバク転・バク宙を自力で友達と練習する普通の中学生だったが、中学3年生の終わりくらいに筋トレマシンやブルーワーカーを購入し、フレームが曲がるほど鍛えまくった。雑誌の巻末に載っている広告で、「大男を一発で倒せる技」や「指一本で人を吹き飛ばす方法」など怪しいグッズを買いあさって練習した。友達とは天井を蹴る練習やバク転キックなど、今考えると変態のようなことをしていたもんだ。 その甲斐あってか、鍛えた運動能力が高校で花開いた。体育の成績は学年で1位である。男子校なのが残念だった。マット体操のテストでは周りがでんぐり返しなどレベルの低い中、自分は前転・側転・バク転・バク中。ソフトボールではいつもホームランで、西部・秋山のようにバク中でホームインした。当然、自分の打順の時は外野はバック守備だ。体育の授業が楽しくて楽しくてしょうがなかった。 ハンドボールの授業では、自分のシュートでクラスメートの顔面に炸裂してメガネが割れて額から出血。それ以来、自分がシュートするときはキーパーは皆、怖さのため横に移動してゴールを開けてくれた。柔道の授業では自分よりはるかに重い人を持ち上げて床に落とし、それ以来は誰も組まなくなった。長距離系はダメだったが、どんなスポーツでもそれなりにできたので楽しかった。よく友達からいいもん持ってるのに勿体ないと言われていたのを覚えている。今となっては過去の栄光だ。 肥満・筋力低下の50歳前の今でも役に立っていることが残っている。反射神経と肺活量だ。運動能力測定で社会人以降に何回か測ったが、反射神経はアスリート並の判定、肺活量も5500ccある。周りの友達がバイクで死んでいく中、自分が生き残っているのは反射神経のおかげでもある。 今では健康のため、体重を20kg落とさないと死の匂いがプンプンしている。情けない。 |
006話:永遠の4歳児(区分=家族1) 2006年7月23日に長男が生まれた。その数年前に流産した後でなかなか子供ができず不妊治療をしていて、IVHまではしてないがそれでもやっとこさできた待望の子供だ。4か月児検診で発育に懸念があるので滋賀医大で診てもらうことになった。結局、何の病名かもよく分からず、2024年3月10日現在、長男も今年で18歳になるので就労施設を決めるために記載した履歴書のようなものには、「発達障害・自閉症スペクトラム」と記載されている。 最初に障害児と分かったのは寝返りの仕方がおかしかったこと。立つのも歩くのも人より遅かった。大津市の知的障害児・障害者の方々のための総合支援(複合的通所)施設「やまびこ総合支援センター)に通った後は、つくし保育園に入園し卒園まで過ごした。小学校・中学校・高校は、滋賀県立草津養護学校で、今は高校2年にあたり来年卒業である。 今も、ひらがなも分からず、20まで数えるのがやっとである。定期的に療育手帳の更新で知能を計測してきたが4歳相当から上がらない。読み書きはできない。会話は成り立たないことも多いが、少しは話をすることができ、TVゲームもマリオなどのアクションゲームであれば普通にできている。障害等級で言うと重度知的障害であり、手帳もA2となっている。最重度、重度、中度、軽度の4段階なので2番目だ。生きた屍ではないものの、それなりに手はかかり、何より将来が不安である。 学校でたまに暴れたりすることがあり、何度もケガしている。中でもガラスに突っ込んで血の海と化した事件では腕や脇を中心に50針近く縫っている。理由は体育が嫌いなのに無理やりさせられたからだったみたいだ。ドアなど壊して弁償もしょっちゅう。その度に謝らないとダメなので、お金も気も削られる。そのために妻も病気の総合デパートみたいになっており、腫瘍で子宮も摘出したし、精神病院にも通ってる心臓や肝臓・腎臓もおかしく、先週も血尿がひどかったみたいだ。 江戸時代以前の昔だったら捨て子となり死んでいたが、今では人権がある。自立できるのは夢のまた夢。生かす義務があるのなら、国はきちんと保障すべきであるが、現在、司法や保障内容、条件を勉強中。社労士くらい資格取得しとけばよかった。 |
005話:保育園のやんちゃ時代(区分=生い立ち2) 両親が共働きなので保育園に預けられていた。保育園児のときは迎えに来た別の子のお姉ちゃんをクロスチョップでプールに突き落したり、別の子に岩を投げて何針か縫うケガをさせたりの問題児であった。T.Sとはよくケンカをしていたが、歯をへし折られ先生が仲裁した時、女子園児がごはん粒が足裏に突き刺さったと騒いでいたがそれは自分の前歯だった。18歳時にその保育園の同窓会があり出席したがT.Sはヤクザになっていた。免許持っていたか分からないが18歳で飲み屋に高級車でやってきた。知らん別卓の人がこちらを見ると、「こっち見んな!」とグラスを投げて壁に当たり炸裂し場が凍り付いた。こんな気性では命がいくらあっても足りない。30年前の話だが、もう既にこの世にT.Sはいないだろう。 自分は3〜4歳から剣道を習っており、風貌がチンピラな先生:岡村に毎週ボコボコにされていたので、この頃に根性を鍛えられた。かなりの恐怖で、周りではションベンちびって泣き出す子供や蕁麻疹ができて倒れる子供もおりすぐやめてしまう。死なない程度にボコボコにしてもらったおかげで、毛の生えた心臓と鋼の胃を得ることができた。(笑) 小学年低学年まではやんちゃ坊主、中学1年まではいじめられっ子、その後は隠れいじめっ子に転身し、高校3年までは偽優等生といった経歴だが、小学校以降は別の回で記載することにしよう。 |
004話:ばあちゃんちの掃除(区分=生い立ち1) 2023年11月、ここ数年、年に2〜3回、13年ほど前に亡くなった祖母の家(たばこ屋)を掃除している。ゴミ屋敷のような状態だった家も2tトラック10回分くらいのゴミを吐き出し、ようやく家らしくなってきた。でも、まだ土足でないと入れない。自分が小学校2〜3年生まで平日の朝1hと夕方3hに住んでいたのだから、自分でもビックリである。 両親が共働きのため、西喜連保育所に通っていたが、その前後はこの祖母の家に居たのだ。もう40年以上前のことである。タンスの底にある新聞紙や棚に置いてある雑誌を見ると1970年〜1973年の物が多い。遺品を見たり、母親に昔のことを聞いたりすると自分の生い立ちに関係するストーリーが今になって詳しく知るのである。 おばあちゃんは大正生まれ。じいちゃんは読売新聞に勤めていたとのことだが30歳で本社課長、40歳で本社部長になった出世頭だが50歳で糖尿病になり、自分が小学校3〜4年生の時には亡くなっていたと思う。おばあちゃんは正妻ではなく結婚はしていない。おばあちゃんの最初の夫とその間の赤ちゃん(母の父親違いの兄)は戦争でなくしている。戦争中、おばあちゃん一家は台南に移住していたが日本に戻って来る時に赤痢でおばあちゃん以外は皆死んだということだ。おばあちゃんは女学校を出ていたしタイプライタもできたから、台湾にいたころは総督府、その後は森永で働いていたとのこと。日本に戻った時には一文無しで1人だった。戦後に落ち着いてからは寡婦年金をもらっていたし、じいちゃんに貰った新大阪の喫茶店をやっていたので、お金にそこまで困ることはなかったはずだ。母親は後の方のじいちゃんの方の子供だ。戦時中はそんなもんだったのだろう。西喜連に引っ越してたばこ屋を始めたのは自分が生まれる前の話だ。母が中学校の時にたばこ屋に移ってきたとのことなので1963年くらいのことだ。 自分はおばあちゃんっ子だったが、孝行できなかったのが残念。子供というのはそんなものなのだろう。40年前は、自転車屋、クリーニング屋、スーパー、駄菓子屋、電気屋、大衆食堂、プラモ屋、米屋、耳鼻科病院、内科病院など近所に様々な店があったが全てが無くなっている。周りにマンションが続々経つ中、この元たばこ屋のエリアだけは40年前の面影を残している。 長い間、開かずの家だっただけに、この元たばこ屋の家からは主に昭和45〜55年の物がザクザク出てくる。さあ、小学校1年生の時に無くしたコブラのゲームウォッチを探すぞ〜。 |
003話:立て続けに所有バイクが故障(区分=バイク2) 今まで15台のバイクに乗り継いできたが、最も短命だったバイクのお話である。 2022年10月に7年間乗っていたヤマハの250ccスクーター「マグザム」が時速70km以上になると、こすれたような異音がするようになり、翌月にはスズキの150ccネイキッド「ジグサー」に乗り換えた。ちなみにマグザムはバイク王で現金1万円+クオカード1万円で売れた。当然、異音するのは内緒。 久しぶりのマニュアルミッション車で楽しく快適に走っていたのだが、2023年8月には福井県敦賀のバイパスでエンジンが焼き付きご臨終。オイル交換してから1500kmも走っていないのに、最高速で走るだけでこのザマである。6カ月保証だったのに運が悪い。諸費用込み30万円ほどで買ったバイクが1年も経たないうちに廃車料2万円取られ無くなるとは考えも及ばなかった。ムカー。鈴菌は二度と買わん。。。 バイクがないと困るので、すぐに台湾メーカーキムコのスクーター「レーシング150FI」を諸費用込み20万円で購入したが、1週間もしないうちに不具合が発覚! 加速が遅すぎて坂道では2人おりで時速40kmくらいしか出ない。自動車専用道を走ると怖い。 1人乗りでもスタート加速では50ccスクーターにぶっちぎられる。3倍の排気量なのにそんなバカなー。 保証期間の1週間経過前にバイク屋に持っていくと、ガソリンポンプがイカれているとのこと。部品交換が必要で修理入院2週間。おまけにウエイトローラーも変形していた。保証期間でなかったら5万円コースだった。あぶね〜。 短命だったジグサーの分まで、キムコ「レーシング150FI」を乗りつぶそう。ジグサーは5年落ちモデルを購入してすぐ潰れたが、キムコは10年落ち。嫌な予感がプンプンするのう。 |
002話:約30年ぶりのバイククラッシュ(区分=バイク1) 2023年5月3日に龍神温泉への行き道での出来事。滋賀県大津市から三重県伊賀上野経由で名阪国道を通り、龍神温泉までまだ100kmくらい残っていたあたりだったと思う。ローカルの強めの下り道を時速100kmくらいで走行していたが急な左カーブになっていた。ジグサー150ccはシートが小さく、長男と二人乗りだとライディングポジションが超窮屈で操作しにくく、かつバイクよりも人間二人の方が155kgで遥かに重いためブレーキの利きが悪すぎる。 結局、後輪ロックでセンターの砂地でスリップし転倒クラッシュした。長男もうつ伏せでこけてるし、自分も左側に投げ出された。スピードを落としきれず、衝撃はかなりのものだった。自分は左足の擦り傷と左手の打撲。長男も左足の擦り傷で血まみれとなった。更にバイクのフロントフォークが捻じれ、フロントフェンダーもバキバキに割れた。何とか走行可能であるが、直進しているのにハンドルが反時計回りに30度ほど回した状態である。時速60kmを越えたあたりからハンドルがガタガタ暴れだすので、買って半年もせず廃車かと覚悟した。引き返そうとも考えたが続行し、目的地まで行って自宅まで帰ることができた。 2週間経過しても左手が痛いままで、病院行ったが日にち薬と言われ、完治まで2カ月半かかった。バイクの方はエンジン警告灯(黄色いランプ)が点灯しぱなしで今も乗っている。ハンドルの曲がりは、ググると「蹴るべし!」と書いていたので、勢いよく何度も強キックしたら直った。というか、少し逆に曲がった。ちなみに約30年前は18歳の時に西日本1周バイクツーリングでNSR250Rでダート山道を走行中にスリップしてこけた。この時はミラーの捻じれと、ホイールの凹みのダメージだ(体は無傷)。 001話と同じ日にネタが二つも。。。持ちネタ多すぎて100話では足りないかも。ということで、めでたしめでたし?知らない道ではスピード出さないように気を付けよう。 |
001話:男湯に入ってきた女性?(区分=温泉1) 2023年5月3日に長男とバイク二人乗りで龍神温泉に行ったときの出来事である。それまで、何百回も温泉に行っているがそんなことは初めてだった。 日本三美人の湯として知られる龍神温泉の元湯の脱衣所で、男湯のはずなのに、なっなんと、歳は35歳くらいの女の人が入ってきたのだ。目を疑ったがスカートやブラなど下着も脱ぎ、普通に温泉に入っていった。胸もあるがよく見ると股に竿が付いていた。実はニューハーフだったのだ。おっさんどもは皆、チラチラその人の胸などを興味深々で見ていた。そらそーなるだろう。 そんな中、近くでその人の胸をマジマジとガン見している輩が居た。やばいっ、我が長男ではないか。長男は療育手帳A2の重度精神障害児である。不思議な眼差しでお〇ぱいを見ていた。そのニューハーフも気まずかったみたいで、湯船の縁に座っていたが別の湯船に移動した。 胸を手術したなら竿も切り取って、女湯にどうどうと入ればよいのにと思ったが、何か複雑な事情があるのだろうか。温泉から出て服を来たこの人はどうみても女の人であった。 |